20070731

とても気付いた。

「いつ死んでも悔いの無いように生きていたい」といった言葉を稀に聞く。
母も昔言っていた。むしろそう生きているらしかった。



今まで、というか、昨日までそんなことは考えたことが無かった。

昨日のニュース、2歳児が車に取り残され熱射病で亡くなった。
お通夜に参列した父親が、マスコミに対し

『ジュースの自動販売機を通る度に「ジューシー買って」とせがまれた。こんなことならもっと買ってあげればよかった』

といった言葉を残した。



ああ。
4年前、ぼくの祖父が他界した直後、泣きながら叔父が言っていた。

「こんなことならもっと風呂いれてやりゃあ良かったなあ…」

他界する直前まで意識のはっきりとしていた祖父は、寝たきりだったが、はっきりと自分の欲求を口にしていた。頻繁に「風呂に入りたい」と言っていた。



人が死ぬと、残された人は後悔ばかりが頭を埋めると言うが、本当にそうなのだろうと思う。

自分の大事な人にいつ何が起きるかわからない。
いつが「最後の瞬間」なのかわからない。

そんなことを考えていると、決して一瞬たりとも嫌な感情を植え付けたくないと思える。
むしろ、いつなのかわからないのだから、いつでも相手が幸せであるよう努めるべきだ。
少なくとも、二人の間だけは。



「いつ死んでも悔いの無いように生きていたい」は、自分のためであるが人のためでもあるようだった。

自分のことだけで完結するのであれば、いつ死んだって後悔するよ、と思っていた。
そんなことじゃなくて、大事な人を不幸にさせないために常に努力することが大事なのであって、実際後悔するかどうかは問題じゃあない。自分が死ぬ場合以外、後悔しないわけは無いのだから。
今さら気付いた。恥ずかしくなった。

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